昭和から平成へ そして新しい土着の思想で未来へ

 福島で生まれ、伴に教師だった両親に育てられた私の幼いころの記憶の中に、忘れられない「昭和」の風景が残っている。

 ――東京方面で就職する中学生が制服を着て、狭い私の家に集まり、母の手料理を食べている。明日、父がその子たちを引率して上京する――

 「集団就職」「金の卵」と言う言葉は、当時の私は全く知らなかった。その言葉を知るのは、彼らと同じ中学生になったころだった。

 中学の教科書「社会科」を開くと只見ダム、常磐炭鉱など、その位置が日本列島の地図に落とされていた。日本の経済成長を支えるエネルギー・インフラとして、列島地図に記された福島の位置を見る度、郷土の誇りを感じた。

 同時に、地図には経済成長を象徴する京浜、京葉などの大工業地帯が示され、そこは「金の卵」と言われた父の教え子たちが働いている場所でもあるとも思った。

 集団就職する中学生の姿が、幼かったころの寂しい記憶として残されていたからだろう。高度経済成長が始まる1960年代を振り返ると、「寂しさ」と「郷土の誇り」の感慨が交錯し、私の気持ちの中にしっくりしないナゾのような「空白地帯」を作っていた。

 

 時は「昭和」から「平成」へと移る。私は大阪で阪神大震災を経験し、東日本大震災と東京電力福島第1原子力発電所の事故に遭遇し、飯館村で「きぼうチャンネル」を始めた。大原ディレクターの撮影した映像の記録を介して、今、改めて福島を誇りに思った1960年代の気持ちと記憶に向き合っている。

 福島は60年代以降、急速に水力、火力、原子力へと先端のエネルギー・インフラを立地してきた。原発事故は、福島に次々に出現したエネルギー・インフラが日本列島の地図上に割り振られた官製インフラだった、と私に気付かせてくれた。

 

 飯館村で牛を飼う人たちの映像は、村で生まれた誇りと村の土に帰る覚悟が伝わってくる。飯館牛は震災前、グルメ雑誌に「自然の美味しい空気と人の手で育てられた牛」などと大いに宣伝され、まさにブランド牛だった。

 原発事故でそのブランドを失い、避難民を経験した飯館の牛飼い人が再び村で牛を飼う。牛飼う人の姿は、生まれた土地で生きる生活の復権であり、新しい土着の思想を感じる。

 私の中の「あのナゾの空白地帯を最後に埋めてくれるのは、希望と未来を自前で創る牛飼う人の土着の生き方だ」と予感している。平成の終わりに。

 

                           2018年12月23日

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